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​華 道

文房流のいけばな -自然の美を生かす文人花-

明治の初め文人画を愛好する人達の間に始められたいけ花です。
文人画の面白味を取り入れ、花材に松・竹・春蘭などを用い、また岩を配することを好みますが、これも文人画の影響です。

当流は文人抛入花(なげいればな)を源流とし、自然の花の美をそのまま観賞の主体にします。
花の自然の美しさ、枝振りの面白さを生かすこと。
一枝一花の自然を尊重するとともに、それをよりよく生かすため、配合する花材や用いる容器などの対比と調和も重要な点とします。


【文人画】18世紀の終わり頃に中国画の影響を受けて発達した日本画の一流派。

 

​茶 道

文房流の煎茶 -雅趣の中に高雅な味を楽しむ-

中国舶来の文房古玩を愛でながら、書画を揮亳し詩文を論じ、瓶に花を挿し高雅清遊の境地の中に煎茶を味わい、香りを楽しみ清談に時を過ごした文人趣味の流れを汲む煎茶です。

一見磊落な中にも精神修養の場であり、技術の修練も大切です。
茶主とお客相方の心の通い合う和の中で、煎茶を楽しく味わえる雰囲気づくりに心掛けます。


 

​文房流の由来と特色

文房流のお花とお茶は一代の篆刻の名手で文人画家でもあった山本竹雲先生によって明治初年京都から福井にもたらされ、この地に種まかれて育った文人趣味の生け花、煎茶であります。

文人なげいれというのは、文人画(18世紀の終わり頃中国絵画の影響を受けて発達し、その代表的な画家には池大雅、与謝蕪村、谷文晁、渡辺崋山、田能村竹田等がいる)を愛好する人達の間で新しい様式の花、煎茶とともに始められ文人画の面白味をとり入れた、形式にとらわれない自由さと大胆さをもっています。

このような文人なげいれが文人煎茶とともに福井市にもたらされたのは明治六年のことで、山本竹雲先生(備前国児島郡味野に生まれ、其の名は深竹軒夢硯堂と号し、篆刻を業として書画に秀で、特に煎茶器の鑑定には定評があった。一生を風流に過し、明治二七年四月六十九歳で歿。
墓は京都南禅寺天授庵にある。)がたまたま福井に来遊し、風月楼に滞在された時であります。

同楼主人吉川帰峰氏が同好の片山桃州氏、久津見晴嵐氏、五十嵐香圃氏、岡崎鷺州氏等を誘い合わせて文人抛入花、文人煎茶の指導を竹雲先生に受けて以来福井に文人花、茶が盛んになった次第です。

竹雲先生は翌七年一旦京都に帰られ、明治十三年再び来遊されたのですが、この時久津見晴嵐氏は特に熱心に師事し、斯道をひろめることを依嘱されて、文人抛入花、文人煎茶という長々しい名を、文房流華道茶道と呼称されたわけですが、その由来は花を挿し茶を煎じて清談し、文房珍器を愛でたことによるものと思われます。


竹雲先生の遺志をついだ久津見晴嵐翁(名は登志衛。福井藩郡奉行の子息で維新の際、大きな功績のあった由利公正の甥にあたる)は幾多の後進を育てられたが(昭和六年十月、七十八歳で歿)その歿後、翁の門弟の方々によって文房流家元竹雲会(会長 姉崎素山)が組織され、その遺志を継ぎ現在に至っています。
久津見晴嵐師の胸像、初代姉崎素山師の石碑及び文房流の由来を記した碑は福井市足羽山に建立してあります。

その特色は、草木のもつ自然に従うことを第一とし、それぞれのもつ美しいものが最大限にあらわれるように生けることを工夫の中心眼目におきます。
お茶は煎葉濯心を主意とし、主と客との楽しい語らいのなかに所作が自然に形式ばらずに流れるようにすすむことを理想としています。

両者に共通していることは、自然にということです。

 

 文房流  姉 崎 素 山


 


 

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